「第95回:出遇いを紡ぐ場」

山本 博樹 YAMAMOTO Hiroki

総合心理学部 教授

【研究テーマ】

1.学習者の理解過程を支援する説明の研究

2.高校「倫理」教科書からの説明文理解と説明表現の効果研究

3.教科書の説明文を介した学習支援研究
 
【専門分野】
教育心理学
 
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インタビュー:学生ライブラリースタッフ 柴田・嶋田・土井・巻幡

先生の研究内容と、その分野に興味を持たれたきっかけを教えてください。

「分かりやすい説明」の研究をしています。「説明」というものに興味を持ったのは、「明らかにする」ことのはずなのに、実際はなかなかそうなっていないからです。皆さんにも経験はありませんか。先生の説明を聞いたり、教科書の説明を見て、スッと理解できれば良いのですが、分からなかったり明らかにならなかったりということはなかったでしょうか。そういった時に、それでも人は立ち止まらずに暗中模索を続け、自ら明らかになろうとするのに、むしろまたつまずいていくという悪循環に陥ることがあります。僕はそのことについて、人が生きているからこそだと思っていて、悪いようには捉えていません。一方で「説明」の側から見ると、本来は「明らかにする」というはずなのに「明らか」にしていないというのは一体何なのだろうと思ってしまいます。

 では「明らかにする」ということはどういうことかというと、「明らかでない状態」を仮に「無明」とすると、その「無明」を「明」に変えることだと思います。明らかにされる側からすると、「無明」が「明」に変わるように支援をしてもらうという言い方になろうかと思います。「そういったことはできるのか」、「どういうことなのか」をずっと考えてきたということです。幸いにも最近この流れが公認心理師や学校心理士に取り入れられてきて、ありがたいやら恥ずかしいやらという状況です。

 そもそも研究のきっかけは大学3年生に遡ります。「フランス語専門演習」という他学部の専門科目で、受講者が2人の授業にわざわざ出て、フランス語の代名詞である「en」の機能を考えることだけの論文を半年読みました。その授業で鼻から抜ける音声ですらすらフランス語の論文を音読していた同級生(ベルギーからの帰国子女)が「en」の先行詞が言えませんでした。ペ-ジをまたいでいて難しかったのですが、そのあとに僕が先生に当てられて答えたら正解でした。その時に「音読ができても意味が分からない人」がいる一方で音読ができなくても意味が分かる自分がいることに変な驚きと自信が湧いてきて、そこから「意味が分かるっていったいどういうことなのかな」ということを自分のテーマにしようと思い始めました。振り返るとこのエピソ-ドを思い出します。

  

 大学時代、図書館をどのようにご利用されていましたか?

 教育の総本山と言われる大学に入学したのですが、教育学や心理学の授業を受けていても意味がさっぱりわからなかったんです。「玉座の上にあっても木の葉の屋根の蔭に住まっても同じ人間、その本質からみた人間、一体彼は何であるか」という話から始まるペスタロッチーの『隠者の夕暮』をいきなり話す先生がいましたが、申し訳ありませんが、全くわかりませんでした。また動物の観察をしながら動物にも「心」があるのかなと思いながら見ていると、こちらを見返してくることもなく、僕だけが見つめ続けていたり、統計学の授業を受けると「心」と「心」は足したり引いたりできるのかなと考え込んでしまったり、ことごとく壁にぶつかって、授業が嫌になって3年ほど授業に行ったり行かなかったりするようになりました。

 その間何をしていたかというと、哲学や言語学、宗教学、文学など、他学部の授業によく出ていましたね。所属する学部に友達や心配してくれる先生がおらず居場所がない状態であったため、図書館へ行って他学部の授業の中で出遇った学説や理論を調べていました。このように他学部の様々な分野の授業を受けていたので、それらの授業で学んだことを文献で確認したり、あてどない日々を過ごす、とても大事な場所だったということですね。図書館で過ごしていると、僕みたいな人間がほかにもたくさんいることが分かりました。現在学会を引っ張っているような教授方とは学生時代に図書館で出遇いました。そんな彼らを通じて、3年生の秋ごろ、卒論の計画発表をしなければならないということを知りました。僕にとっては「遠い国」のできごとのような話だったのですが、図書館では専門外の勉強ばかりしていたので、どうしたら良いか困りました。

 専門外の勉強では、例えばソシュールの言語学が面白く、『一般言語学講義』を読みました。この本は後の人間が編纂したものでソシュール自身が書いたものではないのですが、彼自身の大学での講義に基づいています。ところが編纂者はその授業に出ていないんです。それなのに、これがソシュールの思想だということで出版されたんです。丸山圭三郎という学者はこのことを批判して、授業に出席していた人たちのノートに基づかないといけないということで、原点に戻って記号学が始まっていくのですが、この話がまた面白く、原典を読もうと思ってフランス語で読んだわけです。なので、フランス語の力を高める必要があると考えて、先にのべた「フランス語専門演習」を受講していたのですね。卒論の研究テ-マを発表する時期に、です。

 そんな日々ですから大学3年次の自分の学部の授業はさっぱり理解できませんでした。「意味の理解」という問題が気に掛かったので、それをまあ引っ提げて、所属する学部のゼミに戻りました。だから図書館は何かって問われると、強いて言えば、僕にとっては本当の居場所、彷徨える場所であり、ポジティブに捉えれば、心理学・教育学という故郷に戻してくれた場所ということなのかなと思います。僕のような「ダメ人間」を受け入れてくれた図書館というのは非常にありがたいものだと思っています。

  

先生ご自身が影響を受けられた本と、大学生にお勧めしたい本を教えてください。

 ドナルド・ノーマンの『誰のためのデザイン』です。既にお話ししたように、当時私は「意味の理解」と「意味との出遇い」というようなことをずっと考えていました。その時にこの本は視点を変えてくれたんです。「分からないという人がいるなら分かるように表現してやれば良いじゃないか」という内容が書かれています。

 僕はそれまで「分かる」ということはどういうことなのかということを、学問としても、自分の体験としても、ずっと追いかけてきました。なぜ分からないということが起きるんだろうとずっと考えていたんです。でもノーマンは分からないなら分かりやすく表現すれば良いと言うんですよ。説明がわからないのは、説明の仕方が良くないということで、分からない人が自分を責める必要はなくて、分からない説明を提供している側が説明の仕方を変えようということなんです。

この図書のタイトルの中にある「デザイン」というのは、文章だけでなくレイアウト、ビジュアル映像、そういうものを含めた全体を言っています。当時、取扱説明書などの文書類が分かりにくいという問題が世の中にありました。そのことを受けて説明文の理解を支援する表現とかデザインという発想が出てくるのですが、その出発点がこの本でした。「説明研究」だとか「理解支援」の研究者だと自認する僕にとって衝撃的な1冊でした。本書を何度も読み返すうちに、このようなことはとりもなおさず教育心理学のテ-マなのだと気づいていきますが、私のようなものには自分が「教育心理学者」だとは勿体なくてまだ言えませんでした。

 みなさんには、教育心理学者のリチャード・メイヤーが書いたLearning as a Generative Activityを読んでいただきたいと思います。重要な1冊です。この本には、人はつまずいても立ち上がって意味理解を求め続けていく存在であり、教育とはやはり意味理解の支援にあたることだと書かれています。この本を読んで、僕のやってきたことは教育だったんだと改めて思いました。また、この後も本との出遇いがあります。教育実践者である東井義雄の『子どもの何を知っているか』という本があります。まずタイトルから痺れました。東井義雄とは兵庫県の田舎に生まれ育ち、校長先生にもなった方です。この方が徹底的につまずいた子どもに寄り添うということ、また教科書はそのままでは教材にはならない、それではただの紙だが、子どもの心に働きかけて初めて教材に変わるという話が面白かったです。教科書を教材にするためには「子どもの論理」ということをしっかり理解して、それに合わせて教科書というものを作っていく、その時のポイントは簡単に言うと支援であり、もう一つの言葉でいうと出遇いだと彼が本の中で語っています。

 フリードリッヒ・ボルノーの『実存哲学と教育学』という教育哲学の本も同じことを言っていて、教育との出遇い、人との出遇い、成長した自分自身との出遇いなどについて語っています。ボルノーの本を読んで、「であい」というのは「遭遇」の「遇」を使って「出遇い」と表記するのが良いのではないかと思うようになりました。「愚」の下部の「心」を「しんにゅう」に変えた漢字で、愚かな人間だから出遇える場所があるというわけです。愚かでなければ出遇う必要もなく教育を受ける必要もないわけですからね。ここでいう「愚者」とは僕にとっては「智者」とほぼ同義なのですが、智者として振舞うのではなく、どこまでいっても自らを愚者として省みて、足りない部分があることから出遇いが始まっていくという、すごい世界をボルノーに見せつけられた気がして、いよいよ僕も「教育心理学者」にならなければいけないなと思い、2010年に立命館の専任教員になって教育心理学を教えることになりました。

大学生の理解のつまずきと高校生の理解のつまずきに違いはありますか?

 人間の本質から言えば高校生であっても大学生であっても、それ以降であってもおそらくつまずきという本質において違いはないのではないかと思います。言ってみれば歩くからつまずくのであって歩かなければつまずきません。そして、また立ち上がるわけですよね。しかし、その立ち上がり方がまずいとまたつまずくというわけです。歩かなければ良いじゃないかという話ですが、つまずいたり、立ち上がったりしてでも前に進んでいこうとするのは、やっぱり人間として生きているからではないでしょうか。そこに高校生も大学生も本質的な違いはないのだと思います。

 ただ、思考様式や知識の獲得に当たっては発達の差があると思います。例えば、高校生の場合「もしも何々だったら何々になるはず」という仮説演繹的思考を獲得します。しかし、この思考は獲得されたばかりなので、多くの高校生は使い方に戸惑ってしまいます。この思考は答えが一つのものには切れ味が良いのですが、答えが二つも三つもある場合、途端に切れ味が悪くなるのです。甲子園では9回裏まで8対0で勝っていても、満塁ホームランを2発打たれると同点になると考えてしまい、平常心を見失って負けてしまうというような場面がよくみられます。こういうつまずきを目の当たりにすると胸が詰まるのですが、獲得したばかりの仮説演繹的思考を適用したからだと思います。とはいえ、これも生きている証だと僕は思うので、このような高校生に出会うために毎年高校野球を予選から見に行っています。

 もう一つ発達差についての例を挙げると、「高校で学ぶ意味ってなんだ」と突き詰めても答えを見出せず、苦しい思いをしている高校生がいるし、絶望している高校生がいると思うのです。同じように大学生も卒論の前に統計などでつまずいたり、苦しい思いはあると思いますが、最終的にはしっかり卒論を提出するじゃないですか。この辺りのこなし方というのは高校生と大学生とでは少し違ってくるのかなという印象はありますね。

先生が講義をするときに工夫していることはありますか?

 僕はあまり自分が良い先生だと思っていないんですよ。ただ、誰もが教師になり得るという思いがあるので、僕以上の「教師」が学生の中にいっぱいいるという風にはずっと思っています。

 おもしろい経験をしたことがあるのですが、近所のコンビニに行ったときに、商品について聞きたいことがあってレジに向かうと、店員が僕の「教育・学校心理学」という授業を受けている学生だったのです。まさかそんな学生がアルバイトをしているとも知らないまま、僕は、「これとこれどっちが良いですか」といったようなことを聞いたんですが、顔を上げて見たら僕の授業を受講している学生だったんです。その瞬間、学生が教師に変わり、教えてくれと言った大学教授の僕が学習者に変わったんです。つまり受講生というのは簡単に教師になるし、教授はいつでも学習者になります。教師というものは誰もがなることができ、教師と学習者はchangeableだと思っています。

 哲学者の西田幾多郎が京都大学を去る「退職の辞」でおもしろいことを言っています。「私の生涯は極めて簡単なものだった。その前半は黒板を前にして座した。その後半は黒板を後ろにして立った。黒板に向かって一回転をなしたと思えばそれで私の伝記は尽きる」と言い残して京大を退職しました。西田幾多郎は教師にもなったし、学習者にもなったということです。教師と学習者の両者はいつでもchangeableだということをこの文章から読み取りました。

 だから授業では第1回目から、出席している学生たちに「あなたたちはもう教師なんですよ」ということにしています。そして僕の授業のモットーは「Everyone is a teacher!(誰もが教師である)」ということになります。受講生がより良い教師として成長するようにと願って、同じ教師として語り口には気を付け、工夫を凝らしています。

小学生にもパソコンやタブレットが支給されるようになり、教育の体制が変化してきていることに対してどうお考えですか?

 コロナ禍が明けるとiPadを使った授業というものが急速に普及をしてきていて、例えば英語の授業ではそういったものを活用しながら非常に上手に授業をされています。こういった場面は数年前とは全然違いますね。

 それをどのように考えるかですが、機材を使って本当に児童生徒は学問や友だち、教師、そして成長した自分に出遇うことができたのかということに尽きるでしょうね。1、2年前を思い出すと我々の大学の授業もZoomで行われていました。顔が一切出ない、出さないような授業や演習もあったわけです。そこに本当に出遇いはあったのかと問われなくてはいけないでしょうね。学問や友だち、教師に出遇い、自分自身の成長を実感できれば、それで良いわけです。そうでなければそれは教育とは呼べず、「無意味な所業」ということになるのでしょうね。

最後に、学生へのメッセージをお願いします。 

 先ほどから言っているように学生と教師はchangeableなので、自分自身に対するメッセージのようになってしまうところもありますが、我々学生、そして私ども教師という、どちらの立場からでも言えることを言うと、「出遇ってほしい」ということです。図書館を出遇いの場にしてほしい。学問に出遇う、友に出遇う、教師に出遇う、そして何より成長した自分自身に出遇う、そういう場にしてほしいと願っています。

◎先生ありがとうございました。

今回の対談で紹介した書籍

ペスタロッチー  (長田新 訳) (1943) 『隠者の夕暮・シュタンツだより』 岩波書店

丸山圭三郎 (1981) 『ソシュールの思想』 岩波書店

ノ-マン (岡本明他 訳) (1990) 誰のためのデザイン 新曜社

ボルノー (峰島旭雄 訳)(1966) 実存哲学と教育学 理想社

Fiorella, L. and Mayer, R. E. (2015) Learning as a generative activity: eight learning strategies that promote understanding. New York, NY: Cambridge University Press.

東井義雄 (1979) 『子どもの何を知っているのか』 明治図書